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川原家と三反帆
筏で熊野川を使い原木を運んでいた頃は、川が現在の鉄道や道路の代わりでした、終着点の新宮の川原は現在の駅でして、駅前広場ならぬ川原町があり、たいそう賑わっていました。

但しこの町、上流にダムのない時代ですから、大水が出ると流されてしまいます。そこで川原家(かわらや)と呼ばれる、折りたたみ式の家で出来ている町でした。増水しそうになると、1、2時間で解体し、水が引くと、そのくらいの時間でまた建てる、と大変便利の良い建物で、宿屋、米屋、雑貨屋、鍛冶屋、飲食店や床屋、銭湯まであり、約300年続いていたそうです。
また熊野川は、昔より船で川を遡る、技術が発達していて、江戸時代に訪れた画家が、その巧みな操船技術を盛んに褒めている記録が残っています。

この船は、三反帆(さんたんぽ)の団平船(だんぺぶね)と呼ばれ、熊野川上流に物資を運びました。
熊野川は午後になると海から吹き上げる風が出て、その風を利用して川を遡りました。
ただし、風に弱いカヌー(ダッキー)の川下りは苦労します。
author:, category:熊野の山の文化, 12:09
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筏(いかだ)
いよいよ、山から丸太を本流(熊野川)へ出して木材の集散地である熊野川川口の新宮へ、花形 筏師(いかだし)の登場です。木馬師(きんまし)も花形ですが、人知れず山の中の木馬道(きんまみち)で悪戦苦闘ではなく、やはり衆目の多い熊野川を下る筏師が、本命登場といったところでしょうか。

質問
この上の写真、熊野川ですが、流れている方向がわかりますか。
写真の上部に流れています。丸太の細い方を下流にして、筏を組んでいきます、反対ですと岩や岸に引っかかってしまうので、くさび形にするのです。

たった二人でこの量の丸太を運ぶのですから、すごいですね、格好いいですね。
さて、数回にわたり熊野の山から木を出す話をしてきましたが、木馬(きんま)、修羅(しゅら)、鉄砲堰(てっぽうぜき)と、どれ一つとっても一滴の石油も使っていません、すべて人力と自然の力と周りにあるものの活用です。永遠に継続可能な技術なのです。実際数百年続けられてきた熊野の文化が、今完全に消えてしまっています。開発、進歩という名の元に、ダムを作り治水をし、筏の代わりにトラックで木を出す、非常に効率がいいと考えてきましたが、そのための道を作り維持管理する、車の開発をする、見えないところで莫大なエネルギーが使用され、そのため地球の温暖化という結果を招いてしまいました。
今更、昔に戻るのは難しいですが、この様な文化があったことを、ご記憶下さい。
この筏師が帰る道、筏師の道も、現在熊野には残っています。


author:, category:熊野の山の文化, 20:11
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鉄砲堰(てっぽうぜき)
さて、シュラ(修羅)やニュートン君の法則で、下にけっ飛ばして(?)谷まで落とした丸太ですが、大きな川だったらそのまま流せますが、水量の少ない小さな谷で、しかも険しい谷だったら(ほとんどそうなのですが)たくさんの丸太を運ぶことは不可能です。
そこで人工的に、鉄砲水を発生させて、一気に本流まで丸太を運んでいました。
その鉄砲水を発生させる方法が、鉄砲堰(てっぽうぜき)です。

この様に丸太でダムを造り、水が貯まった時点で、一気に放水して丸太を流しました。ダムは丸太だけだと水漏れするので、間に苔などを詰めて目止めして、水が漏れないようにしたと、聞いています。
この鉄砲堰(てっぽうぜき)は筏(いかだ)が流せる大きな谷のものですが、小さな谷の場合丸太だけを流しました。
私の母方の祖父は建具職人でしたが、この鉄砲堰で丸太を出していたらしく、水が多すぎて海に流してしまい、大損をした話を、よく聞きました。

author:, category:熊野の山の文化, 20:27
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シュラ(修羅)
熊野の植林山は、急傾斜が多く、よくこんな所に植えたものだ、ほとんど崖じゃないかという感じを持ちます。
現在、化石燃料を使って動力で、木を出しているのですが、動力がなかった時代、たとえばたった直径30センチの4?の丸太で重さが2〜300キロ位、平坦な場所では、なかなか人力では動かすことが出来ません。平坦な場所に生えている、ロシアの針葉樹やら熱帯雨林の大木は、人力では出せなかったので、現在まで手つかずで残っているとも考えられます。
シュラ(修羅)は山から谷へ丸太を落とす方法です。

写真が一部破れていて見にくいですが、木をトユのように組み、丸太を滑らしました。冬場はこれに水を撒き、表面を凍らせ、良く滑るようにして出したと聞いております。
実は急傾斜ほど木を山から出しやすかったのです。
昔から林業の盛んな熊野は色々な木の文化があります。
author:, category:熊野の山の文化, 10:23
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木馬道(きんまみち)の桟道(さんどう)
木を山から運び出すために、使った道 木馬道(きんまみち)ですが、谷だとか、崖があり どうしても道が作れない場合、木で道を作りました。それが桟道(さんどう)です。

ただ木馬道(きんまみち)は現在でも残っていますが、この木の桟道は、使われなくなると、すぐに腐り、木馬道が突然切れていることがよくあるのですが、実はこの桟道なのです。
道の傾斜等から推測して、崖の向こうに又道を見つけることが多々あります。
author:, category:熊野の山の文化, 20:53
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ゴーラ(ゴウラ)

なんだか判りますか。
熊野ではゴーラ(ゴウラ)と呼ばれている日本ミツバチ(和蜂)の巣です。
木をくり抜いて、中を空洞にし、雨が入らないように上にフタをして、下には日本ミツバチが通れるくらいの小さな出入口を作ります。大きい出入口だと、天敵であるスズメバチに食べられます。
たいていは直径35センチ長さ50センチくらいののタンコロ(短い丸太)で作りますが、写真のような山桜が最高とされています。ヒノキでは作りませんね。
分巣するときに、うまくすると入ってくれますが、なかなか入らないようです。
皆さんが食べている蜂蜜は、十中八九西洋ミツバチが集めた蜂蜜で、それと区別するため熊野では和蜜と呼んでいます。採蜜料は西洋ミツバチに比べて非常に少ないです。
又、体は西洋ミツバチに比べて、少し小さいですが、冬も元気で、暖かい日は、梅の花の受粉にも一役買っています。
ミツバチの話になるとおもしろいことが沢山あるのですが、長くなるのでこれくらいにします。
author:, category:熊野の山の文化, 18:55
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木馬(きんま)
木馬と書いてきんまと読みます。
現在は切った木を山から出すのに架線というワイヤーを張り、ジーゼルエンジンを使って出しますが、動力の無かった時代は、この木馬を通す道、木馬道(きんまみち)を作り写真のような方法で木を出しました。

非常に危険な作業で亡くなる人も多かったようで、賃金も良く山仕事の花形の職業でしたが、キツイ仕事で長く続けられる人は少なかったようです。
熊野にはこの木馬道が随所に残っています。

author:, category:熊野の山の文化, 22:59
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