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黒蔵谷の桟道(さんどう)
JUGEMテーマ:日記・一般
珍しい黒蔵谷の桟道の写真を見つけました。レールがひいてありトロッコを牛で引いていたようです。

おそらく第一トンネルを抜けてすぐの所の写真だと思われます。
桟道の説明はこちら
author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 12:05
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鹿の食害
先日ヒノキのシカの食害のブログで、熊ではとのご指摘がありましたので
再度調べに行くと新たに食べたらしく新しい皮がはがれて被害が広がっていました。

剥いだ跡の痕跡です。筋のような浅い線が入っています。
author:, category:熊野の山の文化, 07:58
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山ミミズ(カンタロウ)
一昨日の山登りは、雨の後だったので、山ミミズに2匹ほど出会いました。
両方とも同じくらいのサイズで小さめ そのうちの1匹

大きさがわかるように軍手と共に撮ってみました。
このグロさは 写真では判りませんね・・・


ネットショップ森からの贈り物
フェイスブック始めました

author:, category:熊野の山の文化, 19:55
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ムクロジの実

ムクロジの実は果皮にサポニンを含み、石けんの代わりに使っていました。
早速試してみると確かに泡立ちますが、石けんを使い慣れている現代人には少し心もとない感じ
しかし石けんが高価で手に入らない時代は重宝したのでしょう。
また中の種(写真右端)はお正月の羽子板の羽根に使います。
昔の人はよく自然観察をして、生活の中に活用していたのですね。
author:, category:熊野の山の文化, 16:41
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昔使ったノコギリ
事務所に飾っているノコギリです。

大きく幅美広いノコギリは製材に使ったノコギリで、真っ直ぐ挽くために
この様な幅広になっているのです。
ノコギリを使って木を製材することを木挽き(こびき)といい、木挽きする人を
木挽き職人といいました。
大変な重労働で木挽きの一升飯といって、たくさんのごはんを食べないと続かない
仕事だったようです。
私の祖父はこの木挽き職人でして、米や味噌を持ち何日も山に入っていた
と聞いております。
今はバンドソー(帯ノコ)で、台車に丸太を固定して製材します。

20年ほど前、知り合いの方が、大峯奥駆道の行仙宿山小屋を立てたのですが、小屋の資材はすべてヘリコブターで荷揚げしまして、大変な費用がかかりました。
木挽き職人がいた時代は、ヒョコッとノコギリや米味噌を担いで山へ行き、小屋がけ(風雨を凌ぐ簡単な小屋を造ること)をし、周りの木を倒して製材し、家を建てたのです。
現在は山の木を切出しトラックで製材所まで運び、再びトラックやこの場合ヘリで莫大なエネルギーを消耗して山へ運ぶ 
進歩しているのか、後退しているのか分かりませんね・・・


author:, category:熊野の山の文化, 16:46
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シシ垣(ししがき)
高さ1M 幅90センチくらいの写真のような石垣が山の中に長く続いています。
地元ではシシ垣(ししがき)と呼び、調査によると50キロ近く続いているのもあるようです。
熊野の山の特徴はこのシシ垣(ししがき)と呼ばれる石垣が随所に見られることです。

作った理由は、平地の少ない熊野では農地を山の中の棚田にするしかないので、獣害特に稲をイノシシから守るために石垣で柵を作ったようです。
所々切れ目を付け大きな落とし穴を作ってあって、そこにイノシシが落ちるように作っていますが、子供の頃もう手入れをしていないこの仕掛けに草が茂っていて落ちたことがあります。

昨日は私が所属する新宮山の会の登山大会でして、久々に大勢で登りました。
写真の左下の谷にかつて棚田があり、それを囲むようにシシ垣(ししがき)があります。

私の友人で、霊的能力のある方の説ですが、シシ垣(ししがき)には二種類あるというのです。
一つは農地を野生動物から守る石垣
もう一つは古代の道ではないか という説です。
確かに農地を守るように巡らされているものと、海岸沿いの山際に、
かつての部落の端(境界)を巡るように続いている石垣もあります。
神武東征の折この道を使って北上したのでは
というのが彼の説です。
(う〜む 納得するところがあります)

author:, category:熊野の山の文化, 14:02
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杉の巨変木
500年600年どころではない、1000年は経っているであろう
杉の巨変木です。

岩に絡みつき、立ち上がっていて、その木の間からまた別の木も生えてきている
熊野ならではの光景です。
木の下は5坪くらいはあるでしょうか、相当人数の雨宿りが出来ます。

よく見るとゾウさんみたいですね。
古くでかいゾウですから、マンモス杉とでも名付けましょうか。
author:, category:熊野の山の文化, 13:20
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木馬(きんま)の珍しい写真
日本の林業の発祥地、熊野の、山の文化(古い写真など)を掲載していますが、
(カテゴリーの、熊野の山の文化で連載、古い方から読んでね)
今日は珍しい木馬(きんま)を牛(和牛)で引っ張っている写真です。

木馬道(きんまみち)の途中に牛小屋跡があるところもあります。
牛(黒毛和牛)を見て、美味そうだと思ってはいけません?
author:, category:熊野の山の文化, 10:32
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木馬道(きんまみち)
以前に木馬(きんま)の記事を書きましたが、現在残っている木馬道(きんまみち)の写真です。

幅は一間(1.8?)くらいでしょうか、傾斜は下流に緩やかについていて、途中切れていない、道でしたらマウンテンバイクあるいはオフロードバイクで、十分に走れる道です。

傾斜がなく、地形に沿って作ってあるので距離は結構あります。
緑萌ゆ 行く人も無し 木馬道 (1992年4月古座川支流小川源流にて) 
荒廃した山を憂って、以前作った俳句です。お粗末!
author:, category:熊野の山の文化, 19:14
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川原家と三反帆
筏で熊野川を使い原木を運んでいた頃は、川が現在の鉄道や道路の代わりでした、終着点の新宮の川原は現在の駅でして、駅前広場ならぬ川原町があり、たいそう賑わっていました。

但しこの町、上流にダムのない時代ですから、大水が出ると流されてしまいます。そこで川原家(かわらや)と呼ばれる、折りたたみ式の家で出来ている町でした。増水しそうになると、1、2時間で解体し、水が引くと、そのくらいの時間でまた建てる、と大変便利の良い建物で、宿屋、米屋、雑貨屋、鍛冶屋、飲食店や床屋、銭湯まであり、約300年続いていたそうです。
また熊野川は、昔より船で川を遡る、技術が発達していて、江戸時代に訪れた画家が、その巧みな操船技術を盛んに褒めている記録が残っています。

この船は、三反帆(さんたんぽ)の団平船(だんぺぶね)と呼ばれ、熊野川上流に物資を運びました。
熊野川は午後になると海から吹き上げる風が出て、その風を利用して川を遡りました。
ただし、風に弱いカヌー(ダッキー)の川下りは苦労します。
author:, category:熊野の山の文化, 12:09
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