RSS | ATOM | SEARCH
徳本岩屋(上人窟)

JUGEMテーマ:日記・一般

徳本上人(とくほんしょうにん)は、江戸後期の宝暦8年(1758)6月22日、和歌山県日高町志賀に生まれました。数えでわずか2歳の年、姉に抱かれながら、月に向かって「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったとかの逸話が残っており、幼いころからすでに強い出家の意思を抱いていたようです。
天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けました。また、水行をしたり、藤の蔓につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたことも伝えられており、行場跡も多く残っています。(役行者と同じくクライマーだったようです)
寛政6年(1794)ころから始められたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほど広い範囲に及んでいます。
上人の足跡を物語る石碑(名号碑)は、全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けています。(日高町ホームページより)

 

その徳本上人が行をしたと伝えられる洞窟(新宮市細谷)

壁に特徴ある丸文字で南無阿弥陀仏の六文字と蓮花紋が(名号碑)彫ってある。

右下には花押のようなものが見える。

結構広い洞窟(岩室に近い)で、前にムシロでも垂らせば十分に生活できる。向きは真東に向いていて大きな木がなければ、日が差し込む地形。

昨年秋に訪れた若かりし役行者が修業した友ヶ島の観念窟よりかなり広い洞窟でした。

author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 14:08
comments(0), -
鷲ノ巣池

JUGEMテーマ:日記・一般

三重県南牟婁郡御浜町阪本はなだらかな斜面に棚田が広がる集落ですが、四方を囲む山々は急峻で岩場が多く、夏の渇水期には水不足に苦しんでいたのです。江戸末期天保9年(1838年)に阪本の庄屋小原源七郎が、鷲ノ巣山(わしのすやま807M)の西の650M地点にため池を半年かけて完成させました。いわば江戸期の農業遺産です。

 

話には聞いていて、地図でずいぶん高いところに池があることを確認していたのですが、道が判らないのでとりあえず阪本部落のお寺岩洞院に行ってみましたが、誰もいなくあきらめて帰りかけると、お隣の家から人が出てきたので聞いてみると、道を教えてくれました。

想像していたルートではなく、手前のピークのコル(鞍部)を越える、かなりの急登コースでした。(所要時間1時間30分)

渇水期で水は少ない、池の真ん中に立木がありますが、お風呂の栓の様に底から水を抜いていたようで、水路入口の扉を開くための通路台の跡のようです。

上流からの写真です。写真ではわかりませんが、土手の右端に水路を作ってあって、満水になるとそこから水が抜けるように石垣を組んでいました。

石を三段に積んだダムです。機械もない時代に大変な作業だったでしょう。小屋掛けして泊まり込みで作業したのでは。

 

帰路は戻らないで、以前から歩いてみたかった尾呂志地区から見える見事な岩峰群の尾根を縦走して、風伝峠まで歩きました。

 

三角点のある鵯山(ひよどりやま813M)ここだけなだらかな山

美味しいコメが採れるので有名な尾呂志の部落を一望

視界のきくところが少ないですが、痩せ尾根が多く楽しく歩く6時間の山旅でした。

 

author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 11:10
comments(0), -
シシ垣

JUGEMテーマ:日記・一般

シシ垣は農地を獣害から守る動物除けの、人が積んだ石垣ですが、先日紀宝町の山に行った折はちょっと変わったシシ垣を見つけました。

通常シシ垣は農地を守るため取り囲むように作ってあるのが当たり前ですが、このシシ垣は山の頂上から稜線の急斜面を山城の石垣のように下に続いているのです。高さ幅は通常のシシ垣とほぼ同じですが、まったくの山の中で守るべき農地は見当たりません。

 

気になって図書館で紀宝町史や地元の研究者の文献を調べてみましたが、分かりません。一部しか確認していないので、もう少しどこまで伸びているのか確認してみたいと思います。

 

低すぎるが山城の石垣あるいは境界とも考えてみましたが、ちょっと不思議なシシ垣で、調べるのが面白そうです。

author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 14:07
comments(0), -
筏師の道

久々の 熊野の山の文化 への投稿です。

 

筏師の道 三重県桐原から矢ノ川までを歩いてみました。

紀州藩水野家の重要産業の一つ材木を熊野川上流の北山から筏で運んできた筏師が櫂を担いで帰った道。現在で言うと、さしずめ産業道路でしょうか。幅1メートルほどの立派な石畳の道が残っていました。

途中の風吹峠 神社が祭られていて、ここより下は棚田と部落跡

かつては往来も多く茶屋も賑わったことでしょう。桜茶屋跡

新宮から桐原までのバスでご一緒した方が、今は何もない高岡に旅館が二軒あって、不思議に思っていたとの話になり、実は筏師が北山へ帰った道なんですよと、今日はそれを歩く話をしました。

 

旅人たちに供給したお団子やおにぎりの材料の米を作っていたのでしょうか。

棚田の獣害対策シシ垣

矢倉峠(地蔵峠の看板あり)

しばらく下ると急に立派な階段がありその奥に鎮座する矢倉神社跡

この神社への参道、立派な石の階段です。

この階段を下りて川を少し登ったところにある。青い淵をたたえた宮の滝 神社と関係のありそうな名です。

この横の柱状節理のオーバーハングが見事でした。

これを下ると開けてきて民家が点在し矢ノ川のバス停まではすぐ。

途中馬酔木の花が咲き誇っていました。

 

author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 12:08
comments(0), -
特用林産物

JUGEMテーマ:日記・一般

特用林産物とは材木以外の森からの恵みを言い。山菜、キノコ、切り花(枝物)、木の実や木や竹を利用して作る商品をいいます。

 

和歌山県農林大学校林業研修部の特用林産物公開講座があったので、参加しました。

コウゾ、ミツマタ、ガンピで作る和紙や

ハゼの実から作る和ろうそくやポマード

しゅろの木から作るタワシや箒

大きいほうが国産のタワシ3200円、小さいほうがパーム椰子から作る輸入品88円

箒に至っては一生モンだそうですが、2から3万円ほどするそうです。

楽しい講座でした。

author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 16:22
comments(0), -
黒蔵谷の桟道(さんどう)
JUGEMテーマ:日記・一般
珍しい黒蔵谷の桟道の写真を見つけました。レールがひいてありトロッコを牛で引いていたようです。

おそらく第一トンネルを抜けてすぐの所の写真だと思われます。
桟道の説明はこちら
author:間伐屋木左衛門(かんばつやもくざえもん), category:熊野の山の文化, 12:05
comments(0), -
鹿の食害
先日ヒノキのシカの食害のブログで、熊ではとのご指摘がありましたので
再度調べに行くと新たに食べたらしく新しい皮がはがれて被害が広がっていました。

剥いだ跡の痕跡です。筋のような浅い線が入っています。
author:, category:熊野の山の文化, 07:58
comments(0), -
山ミミズ(カンタロウ)
一昨日の山登りは、雨の後だったので、山ミミズに2匹ほど出会いました。
両方とも同じくらいのサイズで小さめ そのうちの1匹

大きさがわかるように軍手と共に撮ってみました。
このグロさは 写真では判りませんね・・・


ネットショップ森からの贈り物
フェイスブック始めました

author:, category:熊野の山の文化, 19:55
comments(2), -
ムクロジの実

ムクロジの実は果皮にサポニンを含み、石けんの代わりに使っていました。
早速試してみると確かに泡立ちますが、石けんを使い慣れている現代人には少し心もとない感じ
しかし石けんが高価で手に入らない時代は重宝したのでしょう。
また中の種(写真右端)はお正月の羽子板の羽根に使います。
昔の人はよく自然観察をして、生活の中に活用していたのですね。
author:, category:熊野の山の文化, 16:41
comments(2), -
昔使ったノコギリ
事務所に飾っているノコギリです。

大きく幅美広いノコギリは製材に使ったノコギリで、真っ直ぐ挽くために
この様な幅広になっているのです。
ノコギリを使って木を製材することを木挽き(こびき)といい、木挽きする人を
木挽き職人といいました。
大変な重労働で木挽きの一升飯といって、たくさんのごはんを食べないと続かない
仕事だったようです。
私の祖父はこの木挽き職人でして、米や味噌を持ち何日も山に入っていた
と聞いております。
今はバンドソー(帯ノコ)で、台車に丸太を固定して製材します。

20年ほど前、知り合いの方が、大峯奥駆道の行仙宿山小屋を立てたのですが、小屋の資材はすべてヘリコブターで荷揚げしまして、大変な費用がかかりました。
木挽き職人がいた時代は、ヒョコッとノコギリや米味噌を担いで山へ行き、小屋がけ(風雨を凌ぐ簡単な小屋を造ること)をし、周りの木を倒して製材し、家を建てたのです。
現在は山の木を切出しトラックで製材所まで運び、再びトラックやこの場合ヘリで莫大なエネルギーを消耗して山へ運ぶ 
進歩しているのか、後退しているのか分かりませんね・・・


author:, category:熊野の山の文化, 16:46
comments(0), -